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2010年05月
茶どころインタビュー『京都府相楽郡和束町・吉田さん』
(05/20)
和束町 生産家 吉田豊さん
京都府下最大の茶どころ・和束町は比較的若い生産家さんが多く、
独自の栽培法や製茶法の研究にも熱心です。
今回ご登場いただいた吉田豊さんも機械揉みのかたわら、
手揉みの良さを探究し、
自分なりのお茶を作っていきたいとお考えのようです。
新茶の時期が近づく4月、茶園の前でお話をお聞きしました。
■喜びと辛さが重なる新茶の時期
防霜ファンが整備された北向き斜面に、約7反の茶園を所有されている吉田豊さん。手入れの行き届いた茶園で栽培されているのは煎茶の代表品種「やぶきた」のほか、「おくみどり」「めいりょく」といった個性派の品種です。
「お茶をやり始めて10年。今年が一番早い時期に摘採できるかなと思ったのですが、先日、積もるほどの雪が降った影響で、摘採のタイミングも少しずれそうです。たぶん今年も去年並みの時期になりそうですね」。
今年のお茶の出来具合は、と尋ねてみると「分かるのはもう少し先。摘採の10日ほど前、葉っぱが2枚ついた時点で、葉の色を見るとどれだけ肥料がのっているかがわかります。とは言え、刈るときの気候で出来は変わってきます。刈ろうと思っている日の前の晩が冷え込んでしまうと、木は養分を下ろしてしまうのです。こんなに寒いなら芽に養分を送っている場合じゃないと判断するのでしょう。そうなると新芽自体の品質はあまりよくないことになります」。
どの収穫物も気候に大きく影響されますが、茶木ほどにデリケートな植物はないのかもしれません。
例年なら4月下旬、一番茶の摘採は朝の7時半からスタートし、5人がかりで行います。先行の2人が覆いを外し、後の2人が摘採機を操作。最後の1人が収葉袋を持ちます。刈るのは斜面の下側からで、重くなった収葉袋が新芽にかぶさるなどして折れるのを防ぐためです。
その間、吉田さん自身は自分の製茶工場で待機し、搬入後の作業の準備を行います。
「工場へ生葉が最後に入るのが午後5時半くらい。順番に処理し、蒸しの機械に入れるのは最終7時頃です。そこから葉振るい、揉み、乾燥までの全工程を通すのに5時間はかかります。父の代では茶摘みの10日間ほど、午前2時までの作業というのが普通でしたが、ぼくの代になり、どうにか0時までに終わろうということを目標にしています」。
生産家さんにとって新茶の時期は一番の喜びのときでもあり、最も過酷な時期でもあるのです。
■手揉みの可能性を追究したい
吉田さんがお茶の栽培に携わったのは10年前です。以前は大手ハウスメーカーの住宅展示場で6年ほど営業のお仕事をされていました。
「サラリーマンであかんかったら、家に帰ればしまいやと思っていて、気楽にやっていました(笑)。和束に帰ってきた一番の理由は父が病気になったからです。長男であり、代々続いてきた茶園は放っておけないとの思いがありました。会社勤めと大きく違うのは、すべての責任が自分にあるということです。たとえば、葉っぱが変だったとき、病気か否かをすぐに判断できる知識が必要になります。何か分からないけれど、とりあえず農薬を撒いておこうというのではお金もかかるし、今の風潮からは許されませんしね」。
幼いときから茶園の手伝いをされていたとはいえ、管理する側になると苦労は異なります。吉田さんの場合も自分で判断できないことは親や同業の仲間、先輩に尋ね、本を読んでさまざまな知識を身につけられたそうです。
そんな吉田さんの現在の関心は「揉み」の工程です。機械任せにせず、手揉みにすればお茶はどう変わるのか。
「今はコンピュータ管理で、茶葉を入れたら機械が自動的に揉みます。失敗はないけれど同じものばかりができます。茶葉を揉んで得るものは何もないんです。香りも抜けます。だけど、機械ではなく、人がこんな揉み方をすればどうなるか。香りに違いが出るのかどうかが分かってくれば、私たち生産家の仕事はもっと面白くなると思うのです。全部手揉みにするのは体力的に無理がありますが、一部を手揉みにし、それによって自分なりのお茶を作っていきたいなというのが今の抱負です」。
生葉はさまざまな人の手を伝ってお茶に仕上がります。しかし、品質の根本は生産家さんが支えます。生葉を前に生産家さんがどれほどの探求心を持つか。それが今後の宇治茶の将来にもつながっているように思いました。
※写真説明1:「今年も美味しい新茶をお届けします」と吉田豊さん
2:防霜ファンが守る茶園
COOK 2
(05/06) シリーズ ~COOK2~
梅干と鰹のたたき茶漬け
もうすぐ旬を迎える初鰹のたたき。 これを酒と醤油に漬けて梅茶漬けに。
[用意するもの]
●煎茶または玄米茶
●ご飯150g(1人前)
●鰹のたたき(3切れ)
●醤油(適量)
●料理酒(小さじ1杯)
●一味または七味とうがらし(少量)
●青ねぎ(少量)
●梅干(1粒)
[作り方]
① 適量の醤油に小さじ1杯の料理酒を加えます。
② 酒醤油に一味または七味とうがらしを軽くふりかけます。
③ 鰹のたたきを酒醤油に漬け、その間に青ねぎをきざんでおきます。
④ 漬かった鰹のたたきをご飯の上にのせます。
⑤ その上に青ねぎと梅干をのせ、お茶をかければ完成です。
※梅干はくずしておくと、よりおいしくいただけます。
青ねぎで鰹の臭みが消え、梅の風味も爽やかです。
梅と鰹のコラボレーションをぜひ。
TREND 2
(05/06) シリーズ ~TREND2~
「茶香炉」でヒーリング
アロマテラピーという言葉を耳にした人も多いはず。アロマテラピーとは花や木など植物由来の芳香成分を使って、心身の健康や美容を増進する技術もしくは行為のことを指します。
こうした静かなアロマブームの中で、お茶を使った香炉が密かな人気を集めています。お茶の香りは精神を落ち着かせる効果があることで知られています。この「茶香炉」は茶葉を香炉の上に乗せ、下からろうそくの火で加熱するだけ。ほんのりやさしいお茶の香りが部屋中に広がり、心身をリラックスさせてくれます。茶葉には消臭効果もあり、梅雨の時期やタバコ、ペットの臭いがこもっているときなどにも最適です。
古くなった茶葉を使ったり、茶殻を使って二度楽しんでみたりも可能というエコなところも人気のようです。陶器店などでは安いもので1,000円前後、高級品は2万円程度。種類も豊富で、電気式茶香炉もあり、おしゃれなインテリアとしてもおすすめです。
茶の香りは日本人にとって馴染みぶかいもの。自宅で茶の香りが漂ってくると「ほっ」とするのは日本人共通の感覚かもしれません。
BOOK 2
(05/06)シリーズ ~BOOK2~
『本のお茶』
お茶に込められた日本文化と美意識を見直すための1冊をご紹介します。
『本のお茶』(角川書店刊)は、明治39年(1906)に刊行された岡倉天心著「The Book of Tea」を現代語訳とイメージビジュアルで蘇らせた本です。
原書は日本国内において西洋化が急速に進んだ時期に英語で書かれ、ニューヨークにおいて2か国語で出版されました。
日本的な様式美を世界に紹介する上で重要な役割を果たした1冊です。
本書は岡倉天心の考える茶の心をエッセンスだけ取り出して意訳。教養書、茶道書として扱われがちな「The Book of Tea」を現代の日本人が手に取りやすいよう、美しい編集でまとめてあります。
宇治茶タイムトラベル『天下一の煎茶を届けた永谷宗円』
(05/01) 江戸に天下一の煎茶を届けた永谷宗円
湯呑みを片手に宇治茶の時空の旅へとまいりませんか?
今回は宇治煎茶の祖といわれる永谷宗円についてご紹介します。
15年の歳月をかけて、独自の製茶法を生み出した宗円。
点てた茶の香り、味、水色の素晴らしさに江戸庶民が驚嘆したといいます。
そこのけそこのけ茶壺が通る
江戸時代に行われていた御茶壺道中をご存知でしょうか? これは新茶の時期、徳川将軍が服するためのお茶を運ぶため、江戸と宇治を茶壺を抱えた一行が往復するという道中です。
慶長18年(1613)、江戸幕府が最高級宇治茶を見立てる「宇治採茶師」を派遣したのがこの慣わしの始まりです。徒歩頭、茶道頭、茶道衆のほか茶壺の警備の役人など、多いときには1000人を超える大行列となったそうです。
将軍家伝来の100個前後の茶壺に最高級の碾茶を詰め、往路は東海道を、復路は中山道・甲州街道を通りました。甲州街道を通った行列は甲斐国谷村(現・都留市)の勝山城の茶壺蔵に茶壺を納め、富士山の冷気にあてて熟成してから、江戸に運んだといわれています。
この御茶壺道中は当時たいへん権威のある行列で、大名行列と相対しても道を譲るのは大名の方でした。
常識をくつがえした青製煎茶製法
京都宇治田原郷、山あいの湯屋谷村という小さな集落で製茶に携わる宗七郎義弘という人物がいました。
御茶壺道中でもわかるように。当時、高級な碾茶栽培(覆い下栽培)は、宇治の特定の御茶師しか生産を許可されていませんでした。
こうした現状を憂いた宗七郎は、許可を必要としない露天栽培で美味しいお茶は作れないものだろうかと考えました。それは常識をくつがえす試みであり、周囲の嘲笑の中での試行錯誤でした。
しかし元文3年(1738)、15年もの歳月をかけて茶の新しい製法を宗七郎は確立しました。それは従来、釜炒工程やムシロの上で行っていた粗雑な揉捻作業を、露天栽培したやわらかい新芽だけを使い、蒸してから焙炉上の助炭の上で手揉みし、乾燥させるという方法です。
茶葉が青みがかったままに仕上がることから「青製煎茶製法」と名づけられました。
天下一といわれた宇治煎茶
さて、ときの将軍は八代・吉宗公。米の値段にまで気を配ったことでしられる名君です。質素倹約を旨とする吉宗は、御茶壺道中にも倹約令を発します。収益を独占していた宇治の御茶師にとっては大きな痛手だったと思われます。
そうした中、宗七郎は新たな販路を設けようと、開発した煎茶を携え、江戸の町へと赴きます。
江戸に到着した宗七郎は、煎茶を茶商へ売り歩きましたが、だれも買い入れようとはしません。当時、宇治茶はお上のものという意識が強く、また、見慣れない色と形状の茶葉を警戒したのかもしれません。
失意の宗七郎は、最後に日本橋の茶商『山本屋』を訪れました。当主は四代目の山本嘉兵衛です。ここも門前払いかとあきらめかけていたところ、宗七郎持参のお茶を手代に入れさせ、一服。「なんと。色沢、香気ともにすぐれた煎茶じゃ!」と嘉兵衛は高く評価し、鵜入を約束。いざ商いを始めてみると江戸町民から熱狂的な支持を集めました。
宇治に戻った宗七郎はこの製法によって作った煎茶で莫大な財を成します。しかし、収益の多くは茶園などの公共整備事業にあてられ、地元に還元したそうです。
宗七郎は後に出家して、永谷宗円と名乗り、宇治田原郷湯屋谷村で98年の生涯を閉じます。
永谷家代々が暮らした生家は今も残り、茶業を営む人々の心のよりどころとなっています。また、隣接する茶宗明神社は村人が宗円の偉業を讃えて建立した社です。