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宇治茶タイムトラベル『天下一の煎茶を届けた永谷宗円』
(05/01) 江戸に天下一の煎茶を届けた永谷宗円
湯呑みを片手に宇治茶の時空の旅へとまいりませんか?
今回は宇治煎茶の祖といわれる永谷宗円についてご紹介します。
15年の歳月をかけて、独自の製茶法を生み出した宗円。
点てた茶の香り、味、水色の素晴らしさに江戸庶民が驚嘆したといいます。
そこのけそこのけ茶壺が通る
江戸時代に行われていた御茶壺道中をご存知でしょうか? これは新茶の時期、徳川将軍が服するためのお茶を運ぶため、江戸と宇治を茶壺を抱えた一行が往復するという道中です。
慶長18年(1613)、江戸幕府が最高級宇治茶を見立てる「宇治採茶師」を派遣したのがこの慣わしの始まりです。徒歩頭、茶道頭、茶道衆のほか茶壺の警備の役人など、多いときには1000人を超える大行列となったそうです。
将軍家伝来の100個前後の茶壺に最高級の碾茶を詰め、往路は東海道を、復路は中山道・甲州街道を通りました。甲州街道を通った行列は甲斐国谷村(現・都留市)の勝山城の茶壺蔵に茶壺を納め、富士山の冷気にあてて熟成してから、江戸に運んだといわれています。
この御茶壺道中は当時たいへん権威のある行列で、大名行列と相対しても道を譲るのは大名の方でした。
常識をくつがえした青製煎茶製法
京都宇治田原郷、山あいの湯屋谷村という小さな集落で製茶に携わる宗七郎義弘という人物がいました。
御茶壺道中でもわかるように。当時、高級な碾茶栽培(覆い下栽培)は、宇治の特定の御茶師しか生産を許可されていませんでした。
こうした現状を憂いた宗七郎は、許可を必要としない露天栽培で美味しいお茶は作れないものだろうかと考えました。それは常識をくつがえす試みであり、周囲の嘲笑の中での試行錯誤でした。
しかし元文3年(1738)、15年もの歳月をかけて茶の新しい製法を宗七郎は確立しました。それは従来、釜炒工程やムシロの上で行っていた粗雑な揉捻作業を、露天栽培したやわらかい新芽だけを使い、蒸してから焙炉上の助炭の上で手揉みし、乾燥させるという方法です。
茶葉が青みがかったままに仕上がることから「青製煎茶製法」と名づけられました。
天下一といわれた宇治煎茶
さて、ときの将軍は八代・吉宗公。米の値段にまで気を配ったことでしられる名君です。質素倹約を旨とする吉宗は、御茶壺道中にも倹約令を発します。収益を独占していた宇治の御茶師にとっては大きな痛手だったと思われます。
そうした中、宗七郎は新たな販路を設けようと、開発した煎茶を携え、江戸の町へと赴きます。
江戸に到着した宗七郎は、煎茶を茶商へ売り歩きましたが、だれも買い入れようとはしません。当時、宇治茶はお上のものという意識が強く、また、見慣れない色と形状の茶葉を警戒したのかもしれません。
失意の宗七郎は、最後に日本橋の茶商『山本屋』を訪れました。当主は四代目の山本嘉兵衛です。ここも門前払いかとあきらめかけていたところ、宗七郎持参のお茶を手代に入れさせ、一服。「なんと。色沢、香気ともにすぐれた煎茶じゃ!」と嘉兵衛は高く評価し、鵜入を約束。いざ商いを始めてみると江戸町民から熱狂的な支持を集めました。
宇治に戻った宗七郎はこの製法によって作った煎茶で莫大な財を成します。しかし、収益の多くは茶園などの公共整備事業にあてられ、地元に還元したそうです。
宗七郎は後に出家して、永谷宗円と名乗り、宇治田原郷湯屋谷村で98年の生涯を閉じます。
永谷家代々が暮らした生家は今も残り、茶業を営む人々の心のよりどころとなっています。また、隣接する茶宗明神社は村人が宗円の偉業を讃えて建立した社です。
緑茶の王様と呼ばれる宇治発祥の茶葉、玉露
(03/19)煎茶考案の100年後に生まれた最高級の緑茶
緑茶の中で最も高級な茶葉とされる玉露。ふわっとした香りと独特の深い甘みは、他の茶葉にはない優雅な味わいで緑茶の王様とよばれています。
発祥の地は煎茶と同じ京都宇治。煎茶は元文3年(1738)に宇治田原の茶農・永谷宗円が考案し、江戸の茶商・山本嘉兵衛に販売を託したことから広まりましたが、その約100年後の天保6年(1835)、6代目山本嘉兵衛(徳翁)によって玉露は考案されました。
煎茶栽培との違いは、八十八夜といわれる5月2日頃、茶園をヨシズやワラ、あるいは寒冷紗などの化学繊維で20日間ほど覆います。これを被覆栽培といい、直射日光をさえぎることで、緑茶の旨み成分であるテアニン(アミノ酸の一種)を増加させ、とろりとした甘みのある茶葉に育てるのです。このように手間暇かけて栽培されることも、玉露が最高級の緑茶といわれる点でしょう。
玉露という名前は、6代目山本嘉兵衛が宇治郷小倉の木下家で茶葉を露のように丸く焙ったことによるもので、もとは山本家の商品名であり、これがいつしか茶葉の名前になったというわけです。さらに明治初期には宇治の製茶業者・辻利右衛門が、丸く焙った玉露の茶葉を現在のような棒状にすることに成功。宇治茶といえば玉露を思い浮かべるのは、こうした歴史の重みがあるからです。
宇治茶タイムトラベル『明恵上人と栄西禅師』
(02/27) 明恵上人と栄西禅師
湯呑みを片手に宇治茶の時空の旅へとまいりませんか?
今回は日本茶が文字どおり国民のお茶となったルーツをたどってみました。すると、2人の重要な人物が浮かび上がってきます。
孤児として育った伝道者
承安3年(1173)正月8日、一人の赤子が紀伊国有田郡石垣庄吉原村(現在の和歌山県有田川町)で産声をあげました。幼名は薬師丸。母は土地の豪族・湯浅宗重の娘でした。父の名は平重国といい、京都の武者所に勤めていました。武者所というのは上皇の御所を守る機関で、今日のシークレットサービスに近いものです。
上流階級の子として生まれ、何不自由ない生活を送っていた薬師丸ですが、治承4年(1180)、8歳の誕生日に病気で母を亡くし、その年の9月、父が上総の国(千葉県)で源頼朝の軍と戦い、戦死してしまいました。
両親を失った薬師丸は、母方の親戚である崎山良貞に養われました。貴族から武士に政権が移ろうとしていた時代です。そうした大変革を薬師丸も実感していたかもしれませんが、世俗を捨て、9歳で京都の神護寺に住む伯父の文覚上人を頼ります。
そこで勉学と修行に励み16歳で出家し成弁という名の僧になりました。尊称は明恵上人です。
彼は釈迦への思慕の念が深く、天竺(インド)の文化にも強い憧れを持っていました。
茶を持ち帰った僧侶
明恵上人、つまり薬師丸が生まれるより時を遡ること5年。仁安3年(1168)4月、博多を出帆する一隻の船がありました。客は27歳の明菴栄西。
栄西が渡海を望んだ時代は、遣唐使などの大陸渡航が絶えて300年の月日が経ち、決死の覚悟と資財を要する一大事でした。しかし、困難にもかかわらず、彼は海を渡り入宋に成功します。同年9月、天台の経巻60巻を携えて帰朝しました。
その後、釈迦八塔を礼拝したいという願いを抱き、再び渡海。宋からインドへ渡ろうとしますが、あまりの治安の悪さから断念。そして4年後の建久2年(1191)に帰国しました。
この2度目の渡航の際に持ち帰ったものが茶の種(実生)でした。栄西はお茶の素晴らしさに気づき、日本に茶生産を広めようとします。またその薬効を知らせるために、『喫茶養生記』を著します。この書物は上下2巻からなり、茶の薬効から栽培適地、製法まで、細かく記された日本茶初のバイブルです。
栄西と明恵の出会い
その後、禅宗を広めていた栄西の元に、京都栂尾
に華巌宗の興隆を願って、高山寺を中興した明恵が訪ねてきます。親交を深めた栄西は、明恵に茶の薬効を話し、喫茶をすすめ、茶の実を譲りました。
明恵はそれを大切に栂尾に植えました。今も栂尾には明恵上人による最初の茶畑が残り、由緒正しき「本茶」として永らく尊ばれています。
さて、このとき栄西は栽培適地として宇治、大和、伊勢、駿河、武蔵の5カ所を明恵に伝えます。明恵上人は、やがて高僧となり、仏の教えを学びながら弟子たちに茶のありがたみを伝授。やがて、宇治をはじめ全国に茶樹が移植されるようになりました。 時は流れて江戸時代、宇治は湯屋谷に住んでいた永谷宗円という人物が宇治茶に画期的な製法をもたらします。それについては、また次回の「宇治茶タイムトラベル」で。
京都宇治で考案された香り高い茶葉、煎茶
(02/01)煎茶の歴史は宇治田原から始まりました
日本茶の消費量の約7割を占める煎茶は、日本人の間で最も人気のあるお茶です。その誕生は今から約270年前のこと。宇治田原で茶農を営む永谷宗円が、碾茶製法を応用した「青製煎茶法」を考案したことに始まります。
江戸時代、宇治では高級な碾茶栽培は、宇治の特定の御茶師にしか許されず、それ以外の茶農は「煎じ茶」を栽培していました。「煎じ茶」は乾燥した茶葉を煮出したものであり、「煎茶」の名の由来はここからきています。「煎じ茶」は色も赤黒く、味も粗末だったことから、何とかもっと良いお茶を作れないものかと宗円は考えました。
当時、宇治の庶民の間では、碾茶を製する際に選り分けられる折物(葉脈・葉軸)が煎じて飲まれていました。この煎じ茶には今のような揉捻作業が施されていないため、煮出すのに相当な時間が必要であり、水色も黄色でしたが、甘みと独特の香りを有していたのです。この風味の良さに気づいた宗円は、煎茶に碾茶製法の蒸した後に焙炉で乾燥するという工程の応用を思い立ちます。
元文3年(1738)、宗円は露天栽培の柔らかな新芽だけを摘み取り、蒸してから、助炭(熱源を持つ培炉台)の上で手揉みしながら乾燥させるという製茶法を編み出したのです。宗円はこの新しい製法による煎茶の販売を江戸の茶商・山本嘉兵衛に託します。すると、たちまち評判となり、宇治の煎茶は日本茶の一大ブランドになっていったのです。