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江戸に天下一の煎茶を届けた永谷宗円

 湯呑みを片手に宇治茶の時空の旅へとまいりませんか?
 今回は宇治煎茶の祖といわれる永谷宗円についてご紹介します。
 15年の歳月をかけて、独自の製茶法を生み出した宗円。
 点てた茶の香り、味、水色の素晴らしさに江戸庶民が驚嘆したといいます。


そこのけそこのけ茶壺が通る

   江戸時代に行われていた御茶壺道中をご存知でしょうか? これは新茶の時期、徳川将軍が服するためのお茶を運ぶため、江戸と宇治を茶壺を抱えた一行が往復するという道中です。
 慶長18年(1613)、江戸幕府が最高級宇治茶を見立てる「宇治採茶師」を派遣したのがこの慣わしの始まりです。徒歩頭、茶道頭、茶道衆のほか茶壺の警備の役人など、多いときには1000人を超える大行列となったそうです。
  将軍家伝来の100個前後の茶壺に最高級の碾茶を詰め、往路は東海道を、復路は中山道・甲州街道を通りました。甲州街道を通った行列は甲斐国谷村(現・都留市)の勝山城の茶壺蔵に茶壺を納め、富士山の冷気にあてて熟成してから、江戸に運んだといわれています。
  この御茶壺道中は当時たいへん権威のある行列で、大名行列と相対しても道を譲るのは大名の方でした。


常識をくつがえした青製煎茶製法 

 京都宇治田原郷、山あいの湯屋谷村という小さな集落で製茶に携わる宗七郎義弘という人物がいました。
  御茶壺道中でもわかるように。当時、高級な碾茶栽培(覆い下栽培)は、宇治の特定の御茶師しか生産を許可されていませんでした。
  こうした現状を憂いた宗七郎は、許可を必要としない露天栽培で美味しいお茶は作れないものだろうかと考えました。それは常識をくつがえす試みであり、周囲の嘲笑の中での試行錯誤でした。
  しかし元文3年(1738)、15年もの歳月をかけて茶の新しい製法を宗七郎は確立しました。それは従来、釜炒工程やムシロの上で行っていた粗雑な揉捻作業を、露天栽培したやわらかい新芽だけを使い、蒸してから焙炉上の助炭の上で手揉みし、乾燥させるという方法です。
 茶葉が青みがかったままに仕上がることから「青製煎茶製法」と名づけられました。


天下一といわれた宇治煎茶 
 さて、ときの将軍は八代・吉宗公。米の値段にまで気を配ったことでしられる名君です。質素倹約を旨とする吉宗は、御茶壺道中にも倹約令を発します。収益を独占していた宇治の御茶師にとっては大きな痛手だったと思われます。
 そうした中、宗七郎は新たな販路を設けようと、開発した煎茶を携え、江戸の町へと赴きます
 江戸に到着した宗七郎は、煎茶を茶商へ売り歩きましたが、だれも買い入れようとはしません。当時、宇治茶はお上のものという意識が強く、また、見慣れない色と形状の茶葉を警戒したのかもしれません。
 失意の宗七郎は、最後に日本橋の茶商『山本屋』を訪れました。当主は四代目の山本嘉兵衛です。ここも門前払いかとあきらめかけていたところ、宗七郎持参のお茶を手代に入れさせ、一服。「なんと。色沢、香気ともにすぐれた煎茶じゃ!」と嘉兵衛は高く評価し、鵜入を約束。いざ商いを始めてみると江戸町民から熱狂的な支持を集めました
 宇治に戻った宗七郎はこの製法によって作った煎茶で莫大な財を成します。しかし、収益の多くは茶園などの公共整備事業にあてられ、地元に還元したそうです。
 宗七郎は後に出家して、永谷宗円と名乗り、宇治田原郷湯屋谷村で98年の生涯を閉じます。
 永谷家代々が暮らした生家は今も残り、茶業を営む人々の心のよりどころとなっています。また、隣接する茶宗明神社は村人が宗円の偉業を讃えて建立した社です。

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