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明恵上人と栄西禅師

 湯呑みを片手に宇治茶の時空の旅へとまいりませんか?
 今回は日本茶が文字どおり国民のお茶となったルーツをたどってみました。
すると、2人の重要な人物が浮かび上がってきます。


 
孤児として育った伝道者
 承安3年(1173)正月8日、一人の赤子が紀伊国有田郡石垣庄吉原村(現在の和歌山県有田川町)で産声をあげました。幼名は薬師丸。母は土地の豪族・湯浅宗重の娘でした。父の名は平重国といい、京都の武者所に勤めていました。武者所というのは上皇の御所を守る機関で、今日のシークレットサービスに近いものです。
 上流階級の子として生まれ、何不自由ない生活を送っていた薬師丸ですが、治承4年(1180)、8歳の誕生日に病気で母を亡くし、その年の9月、父が上総の国(千葉県)で源頼朝の軍と戦い、戦死してしまいました。 
 両親を失った薬師丸は、母方の親戚である崎山良貞に養われました。貴族から武士に政権が移ろうとしていた時代です。そうした大変革を薬師丸も実感していたかもしれませんが、世俗を捨て、9歳で京都の神護寺に住む伯父の文覚上人を頼ります。 
 そこで勉学と修行に励み16歳で出家し成弁という名の僧になりました。尊称は明恵上人です。
 彼は釈迦への思慕の念が深く、天竺(インド)の文化にも強い憧れを持っていました。


茶を持ち帰った僧侶
 明恵上人、つまり薬師丸が生まれるより時を遡ること5年。仁安3年(1168)4月、博多を出帆する一隻の船がありました。客は27歳の明菴栄西。
 栄西が渡海を望んだ時代は、遣唐使などの大陸渡航が絶えて300年の月日が経ち、決死の覚悟と資財を要する一大事でした。しかし、困難にもかかわらず、彼は海を渡り入宋に成功します。同年9月、天台の経巻60巻を携えて帰朝しました。
 その後、釈迦八塔を礼拝したいという願いを抱き、再び渡海。宋からインドへ渡ろうとしますが、あまりの治安の悪さから断念。そして4年後の建久2年(1191)に帰国しました。time-travel1.jpg
 この2度目の渡航の際に持ち帰ったものが茶の種(実生)でした。栄西はお茶の素晴らしさに気づき、日本に茶生産を広めようとします。またその薬効を知らせるために、『喫茶養生記』を著します。この書物は上下2巻からなり、茶の薬効から栽培適地、製法まで、細かく記された日本茶初のバイブルです。


栄西と明恵の出会い
 その後、禅宗を広めていた栄西の元に、京都栂尾
に華巌宗の興隆を願って、高山寺を中興した明恵が訪ねてきます。親交を深めた栄西は、明恵に茶の薬効を話し、喫茶をすすめ、茶の実を譲りました。
 明恵はそれを大切に栂尾に植えました。今も栂尾には明恵上人による最初の茶畑が残り、由緒正しき「本茶」として永らく尊ばれています。
 さて、このとき栄西は栽培適地として宇治、大和、伊勢、駿河、武蔵の5カ所を明恵に伝えます。明恵上人は、やがて高僧となり、仏の教えを学びながら弟子たちに茶のありがたみを伝授。やがて、宇治をはじめ全国に茶樹が移植されるようになりました。 時は流れて江戸時代、宇治は湯屋谷に住んでいた永谷宗円という人物が宇治茶に画期的な製法をもたらします。それについては、また次回の「宇治茶タイムトラベル」で。

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